大燈国師物語
播磨の地に生まれて
1282年、兵庫県たつの市揖保町の豪族・浦上氏の一族の家に、一人の少年が生まれました。名を宗峰妙超。幼い頃から聡明で、深い物思いに耽ることが多かったといいます。
11歳で出家、禅の道へ
少年は11歳で出家し、地元の大寺院・書写山圓教寺で天台宗を学びます。しかし、彼の心は次第に禅の厳しさに惹かれていきました。やがて鎌倉の 高峰顕日 (仏国国師)や京都の 南浦紹明 (大応国師)に師事し、厳しい修行の日々を送ります。
乞食行と草庵生活
26歳で印可を受けた妙超は、師からの教えを胸に、20年間にわたり草庵での修行と乞食行に励みます。峻烈な禅風のため、近づく者も少ない孤高の日々。しかし、この時期に磨かれた心こそ、後の大徳寺開創の基盤となりました。
紫野の草庵、大徳寺の誕生
1315年ごろ、叔父の赤松円心の帰依を受け、妙超は京都・紫野に小さな庵を結びました。これが後の大徳寺の起源です。花園天皇も彼の徳を深く敬い、1325年には大徳寺を祈願所とする院宣が下されます。
峻厳な禅風と弟子たち
国師の禅風は厳しく、弟子たちは公案を通じて徹底的に悟りを磨かされました。臨済禅の法系は「 応燈関 」と呼ばれ、その後、一休・沢庵・白隠禅師をはじめ多くの高僧を輩出します。国師の教えは、現代の日本臨済宗すべてに受け継がれています。
文化への影響と茶の湯
大徳寺はやがて茶の湯文化の中心となり、村田珠光や千利休ら茶人たちと深く結びつきました。大徳寺塔頭聚光院は千利休をはじめ三千家一族の菩提寺として茶道修業の参拝が絶えることがありません。国師の精神は、茶道や室町文化にも及び、日本文化の礎の一つとなって現代に受け継がれています。
国師号とその徳
大燈国師は、生前・没後を通じて、南北両朝の天皇から8度も「国師号」を贈られました。その長く尊ばれる徳こそ、後世に顕彰される理由です。
投機の 偈 に託した悟り
一回透得雲關了 南北東西活路通
夕處朝遊沒賓主 脚頭脚底起淸風
「ひとたび雲門の関を通過すれば、東西南北どこでも自由自在。迷いも悟りもなく、清らかな風が全身を貫く」。この一節には、国師が求めた自由で澄み切った心境が表れています。
大燈国師の生涯は、孤高でありながらも人々に深い影響を与えた物語です。禅の精神と文化的足跡を辿る旅は、今もなお、多くの人々の心を打ち続けています。
逸話
大燈国師の生涯には、数々の人々を驚かせる逸話が残されています。
- 国師はまくわ瓜を好みました。ある日、花園天皇が乞食にまくわ瓜を無料で配るよう布告した際、妙超は機知に富んだ応答で自らの身元を露見させたといいます。
- 天皇との初めての対座では、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」と述べると、国師は即座に「王法不思議、仏法と対坐す」と応じ、その堂々たる態度で天皇を驚かせました。
これらの逸話からも、国師の峻厳さと同時に、深い覚悟と機知に富んだ人柄がうかがえます。